石清尾八幡宮(高松市・旧高松市)
 

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 石清尾八幡宮(いわせを)

石清尾八幡宮は、石清尾山(232m)の東麓に鎮座する神社。
周囲には、稲荷山、室山、浄願寺山などが連なっていて、この一帯に石清尾山古墳群として知られる、多くのの古墳が広がっている。

鶴尾神社から、栗林トンネルを抜け鳥居前へ。
随神門を通り、その先に見える社殿前の石段まで、のんびり歩く。
お参りをすませ、社務所に寄り御朱印をいただいた後、絵馬堂でお弁当。

神社のしおりと、入口の案内を見ると火災のあった年が1年違っていて、どちらが正しいのか疑問だった。
それからしばらくして、このしおりが作りなおされ、火災の記述が消されていることから、入口案内の内容が正しいのだろう。

由緒(神社しおり)
平安時代、延喜18年(918年)八幡大神様が赤塔山(現石清尾山)に現れ、これをお祭りしたと伝わっています。
また、土岐の国司が京都の石清水八幡宮の御分霊を戴き、祭ったとも言われています。
石清尾八幡宮の社名は、社殿を造った赤塔山が亀ノ尾山(亀命山)の山裾にあたり、石清水と亀ノ尾をひとつに併せて、「石清尾」となったと言われています。
亀ノ尾山の摺鉢谷から石清水が渓流となり、その裾の処の八幡様ということでこの名が付いたのでしょう。
この辺りには、亀命山、亀阜など亀とつく地名が多く見られますが、当時、八幡様の山の際までが海で、たくさん這い上がって来ていたからだと言われています。
南北朝の時代、細川右馬頭頼之公が讃岐はもとより四国を治められていましたが、敬神の念篤く、社殿を拡築し武具を奉納されました。
安土桃山時代の天正15年(1587)には生駒親正が讃岐を治め、高松城を造営し城下町を造り、当社を城の鎮護と崇め、社殿を改築し社領を寄進され、以来、当社は高松の氏神様として親しまれてまいりました。
江戸時代、寛永19年(1642年)高松藩主となった松平頼重公も当社を崇敬し、社殿を造営し、社領・宝物を寄進するなどされました。その後、宝永2年(1705年)三代藩主、松平頼豊公により社殿が改修され、歴代藩主は毎年、当社を参拝する事となりました。
明治5年11月14日には、縣社に列せられました。
創建後320年に及ぶ本殿をはじめ幣殿、上拝殿の3殿は昭和60年に焼失しましたが、平成元年、氏子・崇敬者の浄財により復興されました。亦平成6年には神輿舎を新築し、現在に至ります。

由緒(境内案内版移す)
社伝によると、延喜一八年(九一八年)八幡大神が亀命山山上に現れ、時の国司が山上に祠を建てて祭ったと言われる。また、石清水八幡宮の分霊を祭ったともいう。
別に社の由緒に関しては、当社の縁起は年歴久遠にしてその濫觴定かならずとも云う。
貞治年間(一三六二−一三六八)細川右馬頭頼之が戦勝を祈願して霊験をこうむり、社伝を拡築し武具を奉納し、毎年四月三日に祭礼を行った。これを右馬頭市という。
転生一六年(一五八八年)生駒親正が讃岐に封じられると、高松城を築き、当社を城の鎮守と定め、社伝を改築し、高松の産土神とした。
松平頼重も当社を崇敬し寛永二一年(一六四四年)には社伝を造営して現在地にうつし、社領二〇二石余りを寄進、石灯籠、三十六歌仙の扁額等を奉納した。
その後、宝永二年(一七〇五年)三代藩主頼豊が改宗、以来歴代藩主は毎年社参を通例とした。
爾来改宗をくり返し、すぐる大戦にも一部被害を受けたのみであったが、昭和六十一年十月、不足の火災により本殿・上拝殿は炎上、烏有に帰した。
平成元年九月、遠方近郊の崇敬者及び氏子、市内有力企業の奉賛を得て、本殿、上拝殿其の他社殿を改築整備し、神門、下拝殿を修復して、焼失前より更に規模を広げ、平成の復興は終了した。

社殿

 狛犬

 
 

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