義経神社(高松市・旧香川町)
 

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 義経神社

平尾八幡神社へ向かう途中に鎮座する神社。
由緒に、「職幣無太夫」という名がでてくるが、この神社の前の家が佐藤さんという家がある。
後で住宅地図で、名前を見てみると、「幣無」とあり、今でもこの名が続いていることに驚いた。

由緒
佐藤氏由緒の事。 佐藤氏は大職冠藤原鎌足公五代の孫内麿と云ひし人の子
光仁天皇 宝亀十年(西暦七八〇年)初めて讃岐国 香川郡西之庄村(香南町大字西庄)に来り住みし瀧居左門と云う。
其の子左京淳和天皇 天長元年五月(西暦八二三年)始めて神職となり憲眞と名乗る。
憲眞より七代の孫を憲友と云う。
憲友の子を豊明と云う。豊明の弟に吉広兵部という人あり、其の子孫代々安原門に居住す。
後に至り吉広兵庫頭(此人が氏神を勧請せり)と云ひて、安原の門司となれり。
豊明より八代の孫を左京という。
始めて姓を佐藤と改め名を幣無大夫、名乗を「馬慶」と称す。
是 佐藤家中奥の祖なり。
天養元年(西暦一一四四年)に至り、西之庄村より東谷村無大夫の居住せし屋敷跡の東方の由、村人の言い伝えとなれり。
仰 幣無太夫と名を改めし由は、元暦元年(西暦一一八三年)源義経公、平家追伐の為、當国屋島へ御渡海の砌、太夫黒と云う御召馬、俄に煩い大に困らせられ、此馬を祈り生すべき神職の者どもなきやと御尋ねにつき、伊野原の門司植田越後守明光、右瀧居左京を召し連れ、屋島の御陣所に至り、此者西之庄村の神職の由、言上しければ意に祈祷を仕るべき旨、仰せ付けられる。

然るに軍中俄の事故、幣をととのえる間もなく馬の「太夫黒」を御陣所の木につなぎ、東に向きし枝を折りて幣の代わりとなし、丹誠抽で祈祷をなしつれば霊験忽ち顕はれ、馬早速全快せり。
義経公大いに御感悦ましまし、當座の御褒美として御太刀、御具足等賜り其上、佐藤嗣信の姓を下され、幣為しに祈祷をなせし故、名を幣無太夫。馬早く快くなりし故、辨慶の慶の字を以て名乗りを馬慶と御改め、其上、當国神職の頭を仰付けられるべき由、上意是あり、即ち武蔵坊弁慶の手跡にて、御朱印頂戴仕奉候。

仰、神祖より三十一代を経、大職冠藤原鎌足公に至り藤原氏を賜りてより、二十代を経て佐藤氏中奥の祖、馬慶(是 元正元年屋島の戦)馬慶より二十代を経て、現神職幣無太夫となり、天地開闢の始め、神職より惣慶七十一代にして、神職の始めより現幣無太夫迄三十七代、連綿と打続き、由緒歴史に明なり。
昔より今に至り幣なくとも祈生する事代々一子相傳うものなり。

拝殿と本殿
 


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