呑象楼
 

呑象楼

JR琴平駅から歩いて10分、春日神社の道をはさんだ反対側、榎井小学校北西に建つ。 もとは、興泉寺の前にあったが、こちらに移築された。燕石の愛人宅で、からくり屋敷とも呼ばれていた。

【敷地内説明板より写す】 日柳燕石略歴文化十四年讃岐榎井村に生まれ通称長治郎 稚号は燕石のほかいくつも持ってゐた。

父は、加島屋惣兵衛といい、質商幼少から 気鋭く伯父の石崎近潔に学び、長じて三井雪航 岩村南里に経史詩文 奈良松荘に国学歌学を学んだ。2人の恩師が勤王家で燕石の生涯に大きな影響を与えた。

二十一才で父母に死別し、家督を相続し、三十三才頃まで 遊興し博徒の親分として知られゐた。反面、勤王の志厚く,すでに大和十津川義拳には参加すべく意を同じゅうする元気な若者を集めて待機し腹心2人を送って状況を調査せしめ大和義拳が不首尾に終わったが為に遂に出発は、 やむなく取止となった。

燕石の心中は、後に高杉晋作が下関の功山寺に武士以外に多くの志有る 若者を集めて立ち上がった奇兵隊見ても高杉晋作が燕石の意中を良く表している。又、詩作にも専念 阿野鉄兜 森田節斉にと交遊した。

高杉が幕吏に追はれて榎井に燕石を頼って亡命したのをかくまい、逃亡させた ことから、燕石は高杉の身代わりに四年間投獄され、慶応四年正月二十日出獄上洛して桂小五郎(木戸孝允)と行動を共にし、仁和寺宮大総督野本で軍旗日誌方 として北陸に従軍中不幸にして越後柏崎で病没した。

墓は新潟県柏崎市小学校西側の柏崎招魂所に立てられゐる。爪髪は、榎井旗岡北の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として立てられて在る。